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ワイズワークのふたりごと

11月24
投稿者:(M)

JR九州には、「デザインは公共のため、デザイナーは公僕であれ」をポリシーとするデザイナー水戸岡鋭治氏のおかげで魅力的な車両がたくさんある。自宅近くの踏切でそれらが通り過ぎるのを眺めるたびに、いつか乗ってみたいと思っていた。九州での11年、自動車や飛行機で福岡から沖縄までひたすらに走り回ったような気がする。私たちの仕事は鉄道の駅前にあるわけではなく、効率よく動くには車に限るし、仕事のついでに遊ぼうという欲もあって、二人で動くときには鉄道を利用することは滅多にない。

究極の列車旅をしようということで、汽車に乗ることにした。熊本と人吉を結ぶSLが期間限定で走るという。その車両が水戸岡氏のデザインによるものだという情報を『家庭画報11月号』の特集で得たのは丁度1ヶ月前。発売日の朝から予約センターに電話するも全くつながらず、つながったときには売り切れていた。ならば、と「ゆふいんの森号」「九州横断特急」「はやとの風」「しんぺい」「SL人吉」と同氏のデザインによる特別魅力的な列車にキャンセル待ちをかけ、それから1ヶ月の間に全ての予約がOKになった。本当にまるまる1ヶ月をかけて手に入れた旅である。

九州の中なら大抵のところは日帰りで行ける。それを3日かけてのんびりと列車に揺られた。SLでは、出発を告げるカランカランカランという鐘、ブォーという汽笛、シュッシュッシュという蒸気を吐く音、ガタンという出発の際の揺れ、窓の隙間から入って来る煙の臭い、どれも本当に懐かしかった。でも昔とは全く違う。シートがとても上等(柔らかいというのではなく=ここ、椅子を作る人間として拘ります)でお尻や腰が痛くならない。細部までレトロに仕上げた木部や照明器具、あちこちにあしらわれたロゴなどが美しい。横揺れしないスムーズな動き。昔のSLの不快な部分がすっかり取り去られていた。この違いがわかるのは私たちの世代までだろう。0911SL 134s0911SL 118s

 

 

 

 

 

 

運行にもさまざまな工夫が凝らされている。駅ごとに3~6分停車し、沿線の人たちとの小さな交流もある。ある駅では赤い実を付けたツルウメモドキの枝を「どうぞお持ちください」と渡され、ある駅では甘酒をふるまわれ、そして駅でも沿線でもみんなが手を振ってくれた。私たちも地元の人の作った菓子や赤飯を買い、車内から盛大に手を振った。

SL以外の特急列車も、乗り継ぎをしたワンマンの鈍行列車も含めて、旅を楽しむ仕掛けが溢れていた。現代、移動手段に求められる最も重要な要素はスピードであろう。そんな時代に時速60kmのSLを走らせるならこうでなければ、という企画者の思いが随所に感じられた。そして、その究極のはからいは、SLを下りてから知らされた。SLの車内で聞いたアナウンスは「予定より4分遅れて熊本に到着します」。スムーズに乗り継いだ特急の車内アナウンスは「出発が4分遅れましてご迷惑をおかけしました」。最新鋭の特急列車が、のんびり旅のためのSLの到着を待っていたということ。もちろんSLから乗り継いだ人以外は、そんな事情を知らない。

世の中、効率より優先されるものがあっても良い、という意識が久々に大手を振る時代になったのかも知れません。(M)

11月15
投稿者:(S)

togi仕事をリタイアすると趣味を持ってないと時間が潰せない、と他人は言う。幸か不幸か、今はまだリタイアしてないので趣味がなくても痛痒を感じないが、本当に一線を退いたら直ぐにボケが始まるかも、という恐れはある。

好きでないと趣味にはならないし、継続性がないと趣味とは言えない。かといって「仕事が趣味だ」とは言いたくはない。「趣味のない人間なんて、味も素っ気もない」と言われると辛いので、趣味は?と聞かれると“研ぎもの”と答える。 「えっ、研ぎもの?」。「そう、研ぎもの」。

私は30代の終わりから40代前半まで、木工に凝ったことがある。一時は生涯の仕事にしようかと思うほど入れ込んだ。そのとき覚えたのが“研ぎ”の面白さである。木を削るより道具を仕立てることのほうが性に合っていることを知ったが、いかんせん、それではメシが食えない。結局、本業のデザイナーをやめることなく、“研ぎもの”が趣味になった。

刃物を研いでいるときは頭の中を空にしなければならない。雑念が入ると上手く研げないし、自分の指を研いだり切ったりするからだ。また、家人とトラブったときなどは刃物が近くにあると危ない。そんなこんなで、趣味に没頭する間隔が開くことになる。

趣味であるから当然薀蓄を述べたい。しかし、他人のその類の話を聞くのはつまらないだろうからここではやめておこう。それでも、「仕上げの砥石は京都・鳴滝の本山(ほんやま)砥が最高であり…」と、一言述べたくなるのが趣味の悪いところか。 

【写真は自宅キッチンのシンクを利用した研ぎ場。砥石は天草砥、刃物は東京・深川の鍛冶師、左久作製小刀】 (S)

10月30
投稿者:(M)

『ブランドの功罪』でSが製造者や販売者の戦略としてのブランド論を書いたので、今度は消費者側から。私にはあいにく小さな財布しかないので、いわゆる「ブランドもの」には縁がない。スーパーブランドと呼ばれるものに興味がないのは、財布のせいだけでなく、たぶん自分を知ってしまっているからだろう。似合うわけないじゃん、使う機会がないじゃん、他の持ち物とつりあわないじゃん…。

それでもブランドは必要だと思う。こんなにモノの溢れたマーケットで、昔のデパートのように何のマークもなく縦割りの陳列がされていたとしたら、一体どうやって自分好みのものを選べばよいのだろう。至難の技である。ショッピングをするときまず指標になるのは自分の経験である。以前に買って満足したものがあれば、次の機会にも求めようと思う。その「次の機会」のための目印がブランドの原点であるはずだ。まず最初の品物で満足しなければ、次はない。

怖いのはその先である。この間買ったジャケットもスカートも気に入ったから、今度はパンツを買おうと同じ店に行く(この場合、店≒ブランド)。一度信頼してしまった店員についつい勧められて、ちょっと不安があるけど買ってしまう。自宅で試着をすると、やっぱりちょっと違うかな?と思う。そうやってタンスの肥やしが増えていく。その証拠にリサイクルショップには真新しい品物が並ぶらしい。これがブランドへの過信だ。もっと酷いのは似合わないことにさえ気づかない場合。やはり消費者が持つべきものは、言い古されたことながら、「モノを見極める目」だということになる。

いくつかの満足が積み重なってブランドの価値が構築される。ただし、その時点ではあくまでも個人的な価値観。「ブランドもの」が何かと悪者にされるようになったのは、名前に価値を持たせて利益を積み上げた商魂のせいだ。そして、ブランドのステータスを、それを身に着けることによって自分のステータスになると勘違いした、おバカな消費者のせいだ。ブランドがスーパーブランドに上り詰めるまで努力した製造者を責めるのはお門違い。

結局、やっぱりブランドは大切です。良品の目印として、製造者の誇りとして。(M)

10月19
投稿者:(S)

あなたが知ってるブランドは?と問われたら、多くの人が日本の大手企業か、イタリアやフランスの伝統的なファッションや鞄の会社名をあげるだろう。ブランドとは、ユーザーに特別な信頼感を与え、その商品を所有することで自分が価値ある者とイメージ(或いは錯覚?)させ、販売に結びつけるのがその目的である。、だから、企業はブランディングに力を傾ける。

企業だけでなくkyoyasai、全国で“地域ブランド”を作ることが流行ってきたのは以前に述べた。古くは「京野菜」があり、ブランド構築の成功例として広く認められている。また新しいところでは、ご存知、東国原知事が先頭になって市場拡大を図る宮崎県の県産ブランドがある。何れも、良質、安心のほかにその地方でしかできない珍しさもあって売上げを伸ばしたというからその功は大きい。

 しかし、地域ブランド事業が成功していない例も少なからずある。数年前に、某自治体と産業組合がブランド化を図り、その検証に来てほしいと乞われたことがあった。行って内容をを聞くと、広告会社にブランド名やロゴマーク作成を丸投げし、そのイメージにふさわしい商品を参加企業が開発、それを集めてパンフレットを作ったという。おまけに流通を変えることなく複数の商社(問屋)に任せ、価格も自由(つまり、値引きOK)だそうで、これはもうブランド事業と言えるものではない。それを指摘したら音頭をとった行政の偉いさんからひどく睨まれた。ブランドはそんな容易に成るものではないし、時間もかかる。更に成功してもそれを維持するのは大変だ。案の定、この地域ブランドは3年を待たずに消滅したとか。

このように、本質を理解することなくブランド事業に走って失敗した場合、地域の行政とメーカー、そして商社の関係に不信感が生まれる。しかもそれが、補助金で賄われているなら誰も責任を負わず、われわれの知らないところで税金が消える。罪なことである。

ところで、デパートの1階売場を席巻しているヨーロッパの有名なおしゃれブランドが翳りを見せているそうだ。今まで支持してきた日本の女性たちも、少し覚めてきたのかもしれない。そこで、「そういったブランド品で身を固めるのは、所詮、都会の田舎モンか田舎の都会モン」と断じたら、その筋の人に怒られるだろうか?いや、案外、ニヤリとされるかも…。(S)

10月08
投稿者:(M)

秋になった。読書の季節。布団派の私の枕元には、夏の間の必需品だったウチワやタオルに代わって数冊の本と眼鏡が並ぶようになった。他にもある。アレルギー性鼻炎があるためティッシュ、点鼻薬が欠かせない。夜中に喉が渇くので飲み水、夜中に目が覚めたときのためにテレビのリモコン、目覚まし時計、読書灯、携帯電話、などなど。いつのまにこんなに枕元の必需品が増えたのだろう?年齢に比例しているとしたら、ちょっと悲しい。

ベッドを使っていれば枕元にサイドボードがあって、引き出しや棚にそれぞれ収納することができる。その代わり、それは一日中寝室である。和室は布団を畳めば居間になり、家事室になる。そのフレキシブルさは狭い住空間ではとても便利だし、そのように使っている人も多いと思う。その場合、夜の間枕元にあったモノはどこへ行くのだろう。そのつど、部屋のどこかへ移動しなければならない。

そんなことを考えて作ったのが、「枕元ボード」である。 IMGP2274s
これで枕元の一切がコンパクトに収納できる。布団を畳むついでに「枕元ボード」ごと部屋の片隅に移動する。実際に使ってみて意外な利点があった。読書灯をこの上に置くと、畳の上に直に置くより光源が高くなるため、光の届く範囲が広くなる。「寝ながら読書」好きな人には経験があるはずの、姿勢を変えると暗くなる、という不便さが解消される。試作品をテストするうち手放せないものになった。

これに慣れてしまうと、旅館に泊まったときに手回り品の置き場所に困る。先に挙げたような細々したものを、布団から離れたところに押しやられた大きな座卓の上に並べることになる。飲み残したお茶やら、ガイドブックやらと一緒に雑多なものが散らばった座卓は興ざめだし、夜中に同室の人に気兼ねしながらごそごそ探さねばならない。旅館にも「枕元ボード」があればいいのに、と思うのですが、旅館経営者さま、いかがでしょう?(M)

10月01
投稿者:(S)

CHAIR_2044以前にこのブログで生活リセット世代に向けた家具の開発を進めると書いたが、そのひとつとして、椅子の試作ができた。これはモダンシニアの方々に使っていただきたい回転椅子である。リビングルームに置いてTVを見るとき、読書をしたりお茶を飲むときなどにゆったり寛げる、それが開発のコンセプト。

椅子が回転するというのはとても便利なものだというのが、使ってみるとよくわかる。文字通り360度回転するから、どの方向へも立てるしどの方向からも座れる。おまけに両肘がついているので立ち居も楽だ。

だが、市販の回転椅子には2つの問題がある。①は座面が高すぎること。一般のダイニングテーブル(高さ70~75cm)に応じた椅子だと、座面までの高さが42~45cmあり、靴を履かない日本の生活スタイルでは踵が床にしっかりつかない(脚の長い人は別)ので長く座っていられない。②はモダンな生活空間に置くにはデザインがいまひとつであること。安いけどダサい、ではいまどきのアクティブシニアは満足できないだろう。

試作品はこれから改善を重ねていく。特に座り心地などは立体にして初めてわかることだから、背の角度を変えたり、座面の高さ、奥行、巾など、数ミリ単位で検討する必要がある。ただ、モダンでシンプルという全体の雰囲気はこのままにしたい。

因みに試作品の仕様は、大きさ56(W)×55(D)×72(H)で座面Hは35(いずれもcm)、重さ約10kg、ホワイトアッシュ材にウレタン塗装(ダークとライトの2種)、イタリア製ファブリック(2色)張り。価格を詰めて来年1月発売予定。(S)

9月29
投稿者:(M)

IMGP3009実りの秋である。我が家の周囲には、ありきたりの表現ながら「黄金色の海」が広がっている。日本の四季の彩りはさまざまあるけれど、面積で圧倒的なのが田んぼの色ではないかと思う。田植え時期の透明感、稲の育ち盛りの青々とした爽快感、実りの浮き立つような喜びの色、刈り取られた株ばかりの寂寥感。いずれも日本の風景を語るとき欠かせない。

コメの収穫時期が早まっているという。新米は早いほど値打ちがあるようで、消費者の先取り志向に支えられた商業事情を優先するからだという。自家用のコメのみを作る人は半月先に「美味しくなってから」刈り入れる。そんな現実をこの地に住んで知った。

周囲は9月末の今、既に刈り入れが済んだ田んぼが半分、残された田んぼが半分。おかげで今しばらく黄金色の海の中を歩くことができる。その田んぼが一際見事に輝く瞬間がある。日没寸前の斜めの光線が、ベタ塗りだった黄色を本当の黄金色に輝かせるのだ。その瞬間を見逃さないように、この時期の夕方のウォーキングコースが決まる。

ヒトにも年齢によって最適な光線というのがあるのだろうか。ピーカンの光線に顔をしかめた写真を見るたびに思う。太陽を跳ね返す若さは今更望めないから、せめて良い光線を選んで撮ってほしい。上からの光線がだめなら下からの照明?それじゃオバケよね。(M)

9月21
投稿者:(S)

コラボという言葉が流行っている。英語のコラボレーション(共同)の略であるが、例えば、音楽界では複数の個人やグループが集まって歌うのをコラボというし、ミュージシャンがお寺でコンサートをを開くのもコラボである。産業界でも、同業、異業を問わず複数の企業が集まってひとつの目的をもって行うのををコラボ事業と言い、中小企業の活性化を図る有効な手段としてここ数年盛んになってきた。

ちょうど10年前、私も「corabo南の風のリビング」と称した九州全県と・沖縄を含めたホームファニシング関連企業8社でコラボ事業を試みた。その目的は新たなブランドを作り、その効果を販売力につなげることにあった。通産省(現経済産業省)の支援事業の指定を受け、3年にわたって事業を展開し、首都圏での展示即売会でもかなりの数字を残せるようになった。様々なマスコミに取り上げられると、国もその効果を認め、それが以後の「ジャパンブランド支援事業」や「地域資源活用支援事業」などといった施策に結びついたのではないかと思われる。

だが、残念なことに「南の風のリビング」という先駆的コラボ事業も、補助金事業の指定が終ると消滅してしまった。それは中小企業の集積では組織が維持できなかったためである。補助金と言っても事業費の1/3は企業が負担しなければならないからそれが無くなったら負担も増える、本業が忙しいから組織としての役割も重荷になる、事業を引っ張るリーダーがいない、等々…。

ここ数年、行政の支援を受けて行われたコラボ事業やブランド構築事業の成功例がほとんどないのも、長期にわたる資金力と組織力の展望がないままに実施されてきたからではないか。この限界を超す発想が生まれない限り、中小企業のための活性化支援は今後も難しいだろう。(S)

9月16
投稿者:(M)

電車に乗る。街に着くまでの30分が人間観察タイム。ほどほどの乗客でシートはゆったりした状態だった。「電車に乗ったから切るね」と言う声が聞こえて、携帯電話を持った青年が向かい側のシートに座った(マナー良し)。耳にイヤホンを入れている。電車が止まって杖をついた老人が乗ってきた。青年は老人を目で追っている。老人は席を見つけて座った。青年は安心したように浮かせかけた腰を下ろす(心得良し)。シートには5人が座っている。左右に20cmずつくらいの隙間がある。その頭の上に「このシートは6人がけです」の張り紙。そのうちに乗客が増えて立っている人が目につくようになった。青年は頃合いを見てオバサンに席を譲る(ちょっと詰めるだけでよいのに)。オバサンは軽く会釈して青年が座っていた場所にどっかり座る。その間、このシートに座っている他の人たちは無反応。それぞれが左右20cmずつの隙間を確保したままである(みんな、もっと詰めなさいよ!)。そろそろイライラして来た。090916

首都圏ではしばらく前から、一人ずつのスペースを色分けしたり、仕切りのポールを付けたり、詰め合わせて座らせる工夫がされている。都会であれ田舎であれ、無神経な乗客が多いことは事実。だが首都圏ではそんな無神経が許されない時間帯がある。そのときには否応無く他人との物理的距離が無くなる。それがストレスの原因にもなる。

一体、人ひとりがストレスなく過ごすにはどのくらいのスペースが必要なのだろう。新婚のときにラブチェアを買った夫婦が7年目にしてソファを買い換えるという。「だって狭いんですもの」。そうでしょうそうでしょう、いつまでもピッタリくっついてるわけにはいかないものなのよね。どうやら家庭内のテリトリーもだんだん広く必要になってくるようです。(M)

9月10
投稿者:(S)

saga t.cご存知のように、九州は窯業が盛んな土地である。伝統的工芸品産業として指定されているものだけでも、小石原焼、上野焼(福岡県)、唐津焼、伊万里・有田焼(佐賀県)三川内焼、波佐見焼(長崎県)小代焼、天草陶磁器(熊本県)薩摩焼(鹿児島県)、そして沖縄には壷屋焼がある。中でも全国的に名高い有田・伊万里焼を抱える佐賀県は立派な窯業技術センターを持ち、陶磁器に関する材料や技術、そしてデザインまで組織的な研究が進められている。

先日、この機関の年に一度の運営会議に出席してきた。そして、売り上げのピークであった平成3年に比べると、昨年度はその20%近くまで落ちた、と聞かされた。この傾向は九州のどの窯業界でもあまり変わりはないようだ。そして、その原因を①生活スタイルの変化、食生活の多様化②海外からの低価格で高品質陶磁器の大量流入③旅館、飲食店での安価な食器への切替え④デパートなどでの売場面積の縮小、とするのも変わりない。

しかし、と私は思う。不振の原因をそういうものに求めてよいのか、と。なぜなら、これらはあくまで外的な要因であり、今のユーザーのニーズと感性を把握していないから売れないのだという内的な要因に対する反省を欠いているからだ。転写という技法で大量に作られる陶磁器の引出物にうんざりしている人は多い。この現実に目をそむけ、経済環境や売場に責任を押しつけても意味がないだろう。

一昨日、鹿児島市のアドバイザー事業で薩摩焼の窯元を訪ねたが、ここでもユーザーの心をつかめないという。そこで私のアドバイス。「まず、あなた自身が健全なユーザーになってみたら?」 (S)

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